2010年12月03日
小さなコケの世界、みっけ!
歩いてえころんに行く途中、小さなコケの世界がある。
そこは小学校横のコンクリートの壁から水がしみ出てくるところ。
大雨の時は水が流れている。
何年もかかってできたようなコケの塊にはさまざまな植物が生きている。
コケに触ると水のかたまりのようにしっとりとしている。
今日はびっしりとコケの芽がでていた。
すごいな~とコケに声をかける。
通りがかりの人がなんですか?
というようにみた。
「コケですよ!」
私は歩きながら本を読む。
今読んでいるのは、山尾三省著「桃の道」六興出版 1991年10月初版。
屋久島での暮らしが書いてある。
今日思わず立ち止まって読んだページがあった。
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島というのはひとつの独立した地域であり、その意味では地域全体を丸ごと見ることのできる場所である。
「屋久島を守る会」の人たちは、島の原生林を伐るということはそのまま島の人々の生活を伐ることである
ことを直感し、イデオロギーがらではなく生命感覚そのものにおいて、「子孫に残そう屋久杉の森」という
必死の声を放ったのだった。
森が滅ぼされるならば、森と共にある人々の生命(いのち)が滅びるというのはイデオロギーではない。
それは存在の事実であった。
・・・4行飛ばして・・
都市生活にあっては現実の感覚として見失われがちなことであるが、人間を含む全生物の生命(いのち)はその根源においてこの地球という生命(いのち)と直接的に結び合っている。
もっと具体的に言えば、山があること、川があること、野があること、海があることと直接的に結び合ってあるのである。
・・・5行飛ばして・・
生命(いのち)の根源、あるいは生命(いのち)の原郷、という観点から観る限りにおいては、人間の技術
はあくまで派生的、二次的な現象であるということであり、生命(いのち)に奉仕する以外の技術は決して
許されてはならないということである。
二十一世紀が、ますます技術の時代となるであろうことは明らかであるが、ますます生命(いのち)の時代となるであろうという見通しは全くない。
この二極分離を、身をもって解決してゆくことこそがこれからの時代の技術者に課せられた、真の技術の意味であると僕は思う。
森が滅びれば人も滅びる。
山が滅びれば人も滅びる。
川が滅びれば人も滅びる。
海が滅びれば人も滅びる。
このことは先にも記したように、イデオロギーではない。
存在の事実なのである。
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Posted by えころん at 21:49│Comments(0)
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