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2009年08月21日

佐敷干潟

沖縄、記憶のなかの海 №8(最終回)  佐敷干潟     名和 純

ここは、ほんとうに沖縄の海なのだろうか。
はじめてこの干潟を歩いたとき、そう思った。

島の海岸線の奥深くに隠されていた別世界に迷い込んだ気がした。
そこは、時間の止まったような静かな海。
音もなくさざなみが沖へと後ずさってゆく。

そうして、波紋の刻まれたやさしい砂地が現れる。
その上に散りばめられた、白く光るたくさんの貝殻たち。
そのどれもが、はじめて目にする珍しい貝。
おそらくこの貝たちは、この島の太古の海辺を知っている。
それを解き明かすために、僕はこの干潟に呼ばれたのかもしれない。 

1989年5月、僕の佐敷干潟通いが始まった。
ロープと大型スコップを自転車にくくりつけて、大潮のたびに干潟に通った。
干潟を測量し終えた頃には、101種の貝が記録されていた。

彼ら(貝たち)の「出身地」をつなげていくと、
途方もないスケールでアジアの海岸線が浮かび上がってきた。

大陸へ行こう。
佐敷干潟の貝たちのルーツをたどる1万キロの旅に出よう。
でも、その前に沖縄のすべての干潟を歩いてみよう。

僕の旅は、自転車で島の海岸線をたどり、干潟を探すことから始まった。
そうして見つけた55の干潟を貝を記録しながら12年間歩きつづけた。

そして、ようやく、貝たちに導かれるようにして、僕は黄海へ、南シナ海へ、マレー半島へと
アジアの海岸線をたどっていった。
大陸の海辺には、佐敷干潟の貝が何千キロにもわたって無数に生きていた。

瞬く間に20年が過ぎた。
その間、沖縄の干潟の半分が埋められた。

2009年4月13日、僕は佐敷干潟に戻ってきた。
干潟はかろうじて残されていた。
だが、あの時出合った貝たちの半分は絶滅して、もういない。

僕の旅は終わったのだろうか。
ふと、大陸で歩いた果てしない干潟の光景が幻のように呼び覚まされ、今いる干潟と重なった。
佐敷干潟の歴史は続いている。
今も、そしてこれからも。

僕は旅の準備に取り掛かる。
記憶のなかの海へ。




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佐敷干潟
中城湾の最奥の佐敷地先に広がる砂泥干潟。
20年前にはその存在すら知られていなかったが、
最近はトカゲハゼの生息地として知られるようになった。

沖縄が大陸とつながっていた時代からすみ続けている生き物たちが暮らす、かけがえのない干潟。
しかし、近年、干潟の汚染が急速に進み、固有の生きものたちは絶滅の危機にある。
でも、まだ間に合います。
沖縄で最も古い海、佐敷干潟に行ってみませんか。


今まで読んでくれた皆さん、ありがとう。
いつかどこかの海辺で会いましょう。 名和 純



2009年4月13日
砂地がずーと続いていた。(宇)



ーえころん通信 2009年5月号よりー


名和さんは、琉球大学資料館「風樹館」で働いている貝の研究者です。

そして、えころんのお客さんです。
そんな縁で連載をしていただきました。

私のブログで名和さんの論文について少し書いています。2009年5月6日




    

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2009年08月21日

泡瀬干潟

沖縄、記憶のなかの海 №7   泡瀬干潟    名和 純

その干潟には名前がなかった。
だが、圧倒的な存在感があった。
何なのだろう、この溢(あふ)れんばかりの生き物の多さは。

ここには、この島の生命(いのち)の磁場がある。
生きている貝の種類も半端ではなく多い。
これは、すべての貝を記録するまでに5年、いや10年はかかるだろうな。

そんな覚悟を決めて僕は、この干潟の底知れぬ貝世界へと足を踏み入れた。
そして、まもなく、埋め立て計画が動き出していることを知った。

早く何とかしなければ、でもどうやって? とりあえず友達7人に電話した。
「すごい干潟なんだよ。海の草原がどこまでもあって、食べられる貝がいくらでも採れてね。
今度の大潮、縦断ツアーやるよ。 えっ?干潟の名前? えーと・・・、アワセヒガタ!」

1999年6月13日、8人で泡瀬干潟を歩いた。
ウミジグサのあおい草原が浮島になって、はるか沖まで現れた。
その上を皆でどこまでも歩いた。
この日、この干潟を”泡瀬干潟”と呼ぶ人が8人になった。

それから僕は、貝を記録しながら18の島々の海辺を渡り歩き、
大陸の海岸線を3000キロたどった。
その合間に泡瀬干潟に通い続けた。

僕のフィールドノートには、泡瀬干潟の貝が100種、200種、300種と記録されていった。
琉球列島の北や南の島々で、そして遠い大陸の海辺で出会った貝たちが、
泡瀬干潟でも次々にと見つかっていくのだった。
きっと泡瀬干潟の貝たちは、アジア中の海辺の歴史を記憶しているに違いない。

2009年3月1日、今日も僕は泡瀬干潟を歩いている。
そしてまたしても、何種もの新しい貝を見つけてしまった。
おそらくこの仕事には終わりがない。
僕は旅するように泡瀬干潟を歩き続ける。

ところで、この干潟のことを”泡瀬干潟”と呼ぶ人は、何人に増えたかな?




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泡瀬干潟
 10年前まで地元の貝採人(カイトゥヤー)くらいにか知られていなかった泡瀬の干潟。
 それが、今では、日本を代表する生物多様性の宝庫として、沖縄で最も有名な干潟となった。
 そこで、今、日本最大(?)の自然破壊が行われている。
 その現場では、毎日、ダンプカー約30台分の土砂が投げ込まれ、
 おびただしい数の生き物たちが生き埋めにされている。
 今ならまだ干潟を救うことはできる。
 さあ、みんなで泡瀬干潟へ行こう!




2009年3月14日



ーえころん通信 2009年4月号よりー


  

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2009年08月21日

大嶺海岸

沖縄 記憶のなかの海 №6  大嶺海岸     名和 純

 サナトリウムを退院して山を下りた日、駅で出会ったウチナンチュのあばあさんから
 「海の道」の話を聞いた。

 「おばさんが生まれたのは大嶺という海辺の部落でね。
 海が見えなくなるくらい干上がるの。
 そしたら海の道が出てくるの。
 
 歩きながら貝やらタコなんかがいくらでも採れる道よ。
 そこを通って遠くの部落からもたくさん人がやってきてね。
 おばさんもちっちゃい弟の手引っ張ってずっと遠くまで歩いたよ。

 ザンの来る池まで行ったこともある。
 ザンというのは人魚、そう、ジュゴン。
 あれが夜中に外海(そとうみ)から入ってくる池のことザングムイといってね。
 深くて底まできらきら青くてね。

 もう全部なくなっているはずよ、今は。
 軍に部落接収されて飛行場になって、村にも海にも入れない。
 帰るところなくてね。
 だからおばさん19のときからずっと大阪。大阪で死ぬの」

 列車が大阪駅に着き、おばあさんは人混みに消えた。

 僕は沖縄に帰り、呼び寄せられるように大嶺の海へ行った。
 そこには確かに「海が見えなくなるくらい」干上がった幻のような干潟があった。
 「海の道」は、なくなってはいなかった。
 僕の大嶺通いが始まった。

 それから9年。2009年2月11日。
 今日も僕は、瀬底島から大嶺崎へと貝を記録しながら海の道をひたすら歩く。
 岸から数キロ離れて振り向けば、遠くかすんで浮き立つ那覇の街。
 現世とばかり思い込んでいた街は、実は幻だった。

 すると、ほんとうの世界はこの干潟。
 干潟は記憶しているに違いない。
 あのおばあさんが少女だった頃、幼い弟と歩いた足跡を。
 何百年、何千年と歩き続けてきた無数の人々の足跡も。
 そのうえに、僕の歩みもいつの間にか記憶されている。

 僕はこの干潟の生命(いのち)の重なりに連なっていく。
 地に足をしっかりとつけて。
 このことを今、あのおばあさんに知らせたい。



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大嶺海岸
 那覇市大嶺崎から瀬長島にかけての約5kmの海岸
 その地先には琉球列島最大規模の干潟が現れる。
 那覇空港の制限水域として現在まで自然のままの状態で残された。
 そこは、200種の貝類の息づく生物多様性の宝庫。
 しかし、那覇空港の沖合い展開計画によりほぼすべてが埋め立てられる運命にある。
 その前にみんなで「海の道」を歩いてみませんか。
 ありのままの姿で残されているうちに。




2009年3月30日

大嶺崎から慶良間島が見える。
歩いていけるかも・・・
と思うぐらい大嶺干潟は広かった!(宇)


ーえころん通信 2009年3月号よりー




  

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2009年08月21日

今帰仁ウッパマ

ー沖縄、記憶のなかの海ー №5     

             今帰仁ウッパマ          名和 純

  従兄弟(いこと)と二人で海を見下ろしている古い写真がある。
  がけの縁(へり)の柵から身を乗り出すようにして、二人の少年が果てしなく青い海を見ている。
  このあと、彼らは、がけの隙間をつたって、おそるおそる海へ降りていった。

  そこには、誰もいない、ありのままの浜があった。
  初めのうちは、神様の気配がして怖かった。
  波打ち際に行くと、宝石のように光る貝殻が首飾りのように連なっていた。
  
  夢中で貝拾いしているうちに、大胆になって、どこから浜に降りてきたのか、
  わからなくなるくらい遠くまで来ていた。
  貝殻でいっぱいになった重たい袋を抱えて、崖を登った。

  翌日また行くと、海は、新しい貝の首飾りを用意して待っていた。
  「また、拾ってもいい?」と海に聞いてから、再び袋いっぱいに貝を拾い集めた。
  10歳の少年に対して、海はあまりに気前が良かった。
  それもそのはず、この時、浜の神は、少年に宿命を負わせたに違いない。

  あれから今まで、歩いた浜は、北海道からマレーシアまで300余り。
  拾った貝は10万余り。
  そして、2009年1月1日、長い旅を経て、偶然僕はあの浜に戻ってきたのだ。

  断崖の縁から眼下の浜辺を見下ろした瞬間、30年前の記憶がよみがえった。
  ここだったのだ、あの浜は。
  だが、戻って来るのが遅すぎた。

  浜は埋め立てられて、人工ビーチにされていた。
  そこには、もう、貝の首飾りは用意されていない。
  浜の神は死んだのだろうか。
  いや、まだ確かに生きている。
  それは、僕を海へ、貝へと突き動かす力。

  旅はまだまだ終わらない。



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  今帰仁ウッパマ(大浜)
  本部半島北部の断層崖の下に成立した美しいサンゴ砂海岸。
  豊かなサンゴ礁を反映して、浜には数百種類の貝が打ち上げられていた。
  2006年、浜の半分以上が埋め立てられて、人工ビーチが造成された。
  その影響で海は汚れ、貝は打ち上がらなくなった。
  ここ数年、沖縄では、人工ビーチの造成ラッシュが続き、
  すでに20以上の自然海岸が埋め立てられて失われた。
  今後さらに、10ヶ所以上の自然の浜で人工ビーチが計画されている。























ーえころん通信 2009年2月号よりー  

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2009年08月21日

宇地泊浜

ー沖縄、記憶のなかの海ー №4   宇地泊浜(うちどまりはま)   名和 純

  もう誰も覚えていないと思う。
  あの箱庭のような小さな浜のことを。
  本当にあの場所に浜があったのだろうか、とさえ思う。

  でも、確かに毎日のように通っていた時期があった。
  自転車で長い坂を一気に駆け下りたところに、その浜はあった。
  埋立地の狭間にひっそりと残されていた。
  ほんとうの浜。

  崩れかけた堤防の上には、いつも御願(うがん)のあとのお供え物が置かれていた。
  はるか海のかなたからやって来る神様が上陸する浜。
  そのことを知っているのは、おそらく御願に来るわずかな人たちと僕だけだろう。
  そう思いたくなるくらい、誰も人の来ない静かな浜だった。

  御願場所の背後には、湧水(ゆうすい)があった。
  そこから清らかな水がとめどなくあふれ出して、海に溶けていた。
  海と陸とは水脈でつながっていることを知った。
  そのつながりが、この小さな浜を生き物たちの楽園にしていた。

  干潟の泥の上に散りばめられた紅(あか)く輝(ひか)る石、
  それらは近づくと忍者のように巣穴に飛び込む小さなカニたち、ベニシオマネキ。
  白く輝る石たちの正体は、ハクセンシオマネキ。
  どんぐりがたくさん落ちているのかと思いきや、マダラヒラシイノミガイの群れ。

  ある日、誰も発見したことのない珍しい貝を見つけた。
  それから僕は貝の記録に夢中になった。
  1989年、冬。
  あのとき、僕は、宇地泊浜の小さな生き物たちの世界とつながっていた。

  1996年12月、2年ぶりに沖縄に戻ってきた僕は、真っ先に宇地泊浜に向かった。
  だが、そこは瓦礫(がれき)の山と化していた。
  たくさんの貝たちの世界も、湧水も、跡形もなく消えていた。

  2008年12月27日、宇地泊浜の痕跡(こんせき)を探しに行った。
  だが、何もわからなかった。
  のっぺらぼうな新しい街の広い道路を、何度も行きつ戻りつしただけだった。
  この街の住人は、誰一人としてあの浜のことを知らないだろう。

  でも、僕の中には確かに、あの湧水がいまも流れ続けている。
  この水脈は、今、どこにつながっているのだろう。

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 宇地泊浜
  宜野湾市宇地泊にあった自然海岸。
  陸から海にかけて湧水、田いも畑、湿地、砂浜、干潟と推移する一連の生態系が残されていた。
  そのすべてが、1996年の大規模開発事業により埋め立てられて消滅した。
  現在は整備されて街になり、当時の面影はまったく残されていない。





埋め立てられ瓦礫の山となった宇地泊浜
(1996年12月 名和さん撮影)




ーえころん通信 2009年1月号よりー
  

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2009年08月21日

川田干潟

ー沖縄、記憶のなかの海ー №3   川田干潟   名和 純

  日本全国のすべての干潟の場所は、地形図で知ることができる。
  海岸線沿いの海が茶色く点描されて「干潟マーク」になっているからだ。
  しかし、沖縄の地形図にはなぜか干潟がまったく描(か)かれていない。
  ところが、海が干上がると島は広大な干潟に縁取られるのだった。
  ならば、自分で干潟地図を作ってしまおう。

  1990年4月、僕の小さな旅が始まった。
  自転車で島の海岸をたどりながら、地形図に干潟を描き込んでいった。
  そうして幾日目かに川田の干潟にたどり着いた

  だが、この干潟は地図に書きようがなかった。
  干潟の水平線が遠すぎるのだ。
  満ち潮になると、はるか沖から水平線とともに頭上にかごを載せた20人ほどのアンマー(お母さん)
  たちが一斉に近づいてくる。
  おばさんたちのかごの中は、どれも貝でいっぱいだった。

  僕の川田干潟通いが始まった。
  ロープを岸から沖へ50メートルずつ伸ばし、干潟を測量しながら貝の種類と数を記録していった。
  干潟の貌(かお)は、やわらかい泥、さらさらの砂地、そして海草の緑の絨毯(じゅうたん)へと移ろい、
  それに合わせて貝たちの顔ぶれもがらりと変わっていった。

  だが、フィールドワークは、水平線のはるか手前で頓挫(とんざ)した。
  僕の身体(からだ)が干潟通いを許さなくなったのだ。
  療養生活の間、しきりに干潟への思いが募った。
  あの、はるか水平線のあたりには、どんな種類の貝たちが僕を待っているのだろう。

  川田干潟に「復帰」できたのは一年後だった。
  だが、もう干潟の水平線はふさがれていた。
  埋め立て工事が急ピッチで進んでいた。
  あわてて沖へ急いだ。
  でも、「水平線」の貝たちは待っていてはくれなかった。

  そこには、長大な仕切り堤防が築かれていた。
  そのまわりは、おびただしい数の死に絶えた貝たちで埋め尽くされ、強い臭気を放っていた。
  貝の墓場。
  こんなにたくさんの貝がこの干潟に生きていたのか!
  その貝殻を歯ぎしりしながら、土嚢袋(どのうぶくろ)に詰め込んで持ち帰った。

  2008年11月23日、かつての川田干潟の「水平線」を見に行った。
  殺伐とした埋立地をまっすぐ貫くだだっ広い道路の突き当たり。
  そこには、テトラポット(消波ブロック)で断絶された、死んだような深い海があった。
 
  海は激しくブロックに波をぶつけている。
  わたしの育んだ干潟を、貝たちを、返せ! と怒り狂っているかのように。
  そこからは、遠く泡瀬干潟の埋め立て工事現場が見渡せる。
  泡瀬干潟はなんとしてでも守ってみせますから!
  そう海に誓って、帰路についた。


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 川田干潟
  中城湾北部の具志川市(現うるま市)川田地先に存在していた沖縄最大規模の干潟。
  沖縄で最も生産力の高い干潟は、食べられる貝やカニの宝庫だった。
  春の大潮時には、沿岸集落の人々が大挙して干潟に繰り出した。
  1991年から埋め立て工事が始まり、1993年には干潟の大部分の390ヘクタール
                                    (津堅島二個分に相当)
  が埋め立てられた。その埋立地は2008年現在も、半分以上が荒れ果てた空き地のまま
  放置されている。






川田干潟の埋立地。
草ぼうぼうで、利用れていないところが多い。

遠くに泡瀬干潟が見える。
(2006年12月 勝連城跡から)




空から見ても、やっぱり空き地が多い。
埋め立てしてから16年たったのだけれど・・






ーえころん通信 2008年12月号よりー




  

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2009年08月21日

与根干潟





















沖縄、記憶のなかの海ー №2   与根干潟         名和 純

  那覇と糸満の間に、水平線のかなたまで干上(ひあ)がる海があった。
  といっても記憶にある人はどれだけいるだろう。
  ほんの10年前までのことだ。

  高い堤防とオオハマボウの密林に隔てられた、忘れられた海。
  海岸林の隙間に1ヶ所だけ、
  干潟に下りることのできるコンクリートのスロープが造られていた。
  そのスロープの上に立ったことのある者だけが、その向こうの別世界を知っていた。

  そこを通って干潟世界へと降りていく人々は、
  貝採人(カイトゥヤー)のおじさん、おばさん達だけだった。
  その後からやや遅れて干潟に駆け下りていく変な青年、僕。
  すでに1km先まで干上がっている。急げ、急げ、今日こそは干潟の先の水平線まで縦走だ。
  ところが、50メートルも進まぬうちに座り込む。

  「あっ、こんなところにまだ記録してない種類の貝がいる!」
  なんてことを繰り返しているうちに、いつの間にかはるか遠かったはずの水平線がぐんと近づいている。
  ひたひた潮が寄せてくる。
  あわててスロープに引き返す。
  干潟中に散らばっていた貝採人(カイトゥヤー)も戻ってきている。
  みんな、スダレハマグリやオキシジミのぎっしり詰まった網袋を重たそうに背負っている。

  そして、干潟がやさしく海にくるまれる頃、夕映えの空に海鴨(ウミガモ)の群れが現れ、舞い下りる。
  水平線に夕日が沈む。
  干潟の水面(みなも)に浮かぶ数百羽の海鴨達のシルエット。
  そんな世界が永遠に続くように思えた。

  だが、十数回目にしてようやく干潟の水平線までたどり着いたときには、埋め立て工事が始まっていた。
  干潟は土堤で仕切られ、その上を行進するピストン輸送のダンプカー。
  次々と土砂が放り込まれ、生き埋めにされていく干潟。

  そのかたわらで追い詰められていく海鴨達、貝採人、そして僕。
  1998年10月13日、干潟はついに埋立地に包囲された水溜りになった。
  そこに5台のダンプカーからいっせいに土砂が投入された。
  と同時に、逃げ場を失った15羽のサギが一斉に飛び去った。
  与根干潟の最期(さいご)を見た。

  その後も僕は与根干潟に通った。
  埋立地の隙間に「自然保護区域」として15分の1だけ残された与根干潟に。
  
  貝採人たちの来なくなったスロープは、粗大ゴミ捨て場となった。
  ゴミの間をかき分けて干潟に下り、生き残った貝を探し出して記録し続けた。

  「自然保護区域」は、年々ヘドロに埋もれていった。
  2008年10月12日、すべての貝が死に絶えた。
  スロープの向かいは街になった。

  あの海は幻(まぼろし)だったのだろうか。
  いや、この街こそが幻に違いない。
  与根干潟は生きている。
  僕の身体(からだ)の中に、確かに。

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  与根干潟
   豊見城村(現、豊見城市)に存在していた沖縄最大級の干潟。
   スダレハマグリやオキシジミなどの食用貝の一大産地で、貝の宝庫として知られた。
   沖縄最大の渡り鳥の飛来地でもあった。
   渡りの時期(秋から冬)にはヒドリガモやホシハジロなどの海鴨の大群が見られた。
   しかし、1998年の埋め立て事業により干潟の9割以上が消滅。
   わずかに残された「干潟自然保護区域」もヘドロが推積し、
   約100種類生息していた貝は、ほどんど絶滅した。


ーえころん通信 2008年11月号よりー
  

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2009年08月21日

与那原海岸

毎月発行のえころん通信に、名和さんが昨年の10月から今年の5月まで
「沖縄 記憶のなかの海」を連載しました。

現在、沖縄の海岸はみるみるうちに護岸が造られたり、人工ビーチになっています。
それが、あたりまえの風景になっていくのがワジワジします。

是非「沖縄 記憶のなかの海」をたくさんの人に読んでもらいたいとブログに載せることにしました。
では、本日中に8回分一気にアップいたします!




ー沖縄、記憶のなかの海ー №1    与那原海岸      名和 純

  その浜は中城湾の奥にはめ込まれるようにして、あった。
  懐かしい気配の漂う黒い砂浜。
  浜砂に手のひらを置くと、やわらかくてなめらか、優しい感触が伝わってくる。

  生きもののような砂。砂を生かしているのは波だ。
  はるか沖のほうから重なり合って砕けてきて、浜を勢いよく這い上がる波。

  波の引いた後のきめの細かい砂肌の上に散りばめられた、たくさんの貝殻。
  浜を何往復もして夢中で貝を拾い集めた。
  珍しい貝ばかりだった。

  この貝たちは、どこから来たのだろう。
  この浜には、気の遠くなるような時間が閉じ込めれているに違いない。
  いつか、貝たちのルーツを探す旅に出よう。
  そんな夢想を抱きながら、浜に通い続けた。

  与那原海岸のすべての種類の貝を見つけて記録しよう。
  でも、間に合わなかった。
  与那原湾の入り口が締め切られ、埋め立て工事が始まった。
  波の寄せてこなくなった浜は、みるみる砂が汚れ、貝たちは死に絶えた。

  やがて、与那原海岸は、広大な埋立地に姿を変えた。
  浜の記憶は永久に封印された。

  その頃から、僕の身体(からだ)は、何かにからめとられたように動かなくなっていった。
  沖縄を離れ、紀伊半島の山の中で療養生活を送った

  サナトリウムを退院して山を下りた日、無人駅で一人の老婆に出会った。
  大阪行きの電車の中で仲良くなった。
  おばあさんはウチナンチュ(沖縄出身)だった。

  「ほく、今、沖縄に住んでいます」と言うと
  「与那原浜は今もあるね?」と聞かれた。

  「おととし埋め立てられて、もう跡形も、何もないですよ」
  「ヨナバル、海、きれいだったよー。
   小学校の水泳の授業あそこの浜でやってたの、那覇の小学校はみんな。
   水泳の日は軽便(鉄道)に乗って与那原まで行ったよ。
   きれいだった、海、透きとおっていてね。ヨナバルは。」

  戦後すぐに一人で大阪に移住した。
  「一度だけ沖縄に帰ったけど、もう戻らない。
   大阪で死ぬの。沖縄はね、全部変わってしまって、帰っても何もわからんから」
  別れ際、おばあさんは、僕の手の中に五千円札をねじ込むと、大阪駅の雑踏の中に消えた。

  旅に出なければならない。
  ヨナバルの貝の故郷(ふるさと)を探しに。


  2006年9月、ヨナバルの貝のいくつかの種類をやっと見つけた。
  果てしなく続くベトナムの黒い砂浜で。
  その後も、僕は貝を探し求めて旅に出る。
  「記憶のなかの海」に突き動かされるように。

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   与那原海岸
    沖縄島与那原町にあった自然海岸。
    ヨナハパマまたはヨナコパマとも呼ばれ、沖縄の古謡「おもろそうし」にも詠われた美しい海岸。
    沖縄では珍しい灰黒色の砂浜には、日本(世界?)で与那原だけに見られる固有の海岸生態系
    が存在していた。
    そのすべてが、中城湾マリンタウンプロジェクトにより埋め立てられて、1998年に消滅した。























埋め立てられて水路となった与那原海岸  ヘドロとなっている
    2002年1月 (撮影;名和 純)
  (94.1.1、は間違いです)

写真がちょっと斜めになっている。ご勘弁を。


 

引き潮の与那原海岸 
美しかった頃 

 1995年5月
 (撮影:水間八重さん)












ーえころん通信 2008年10月号よりー

  

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